2022/01/08
トンイ(淑嬪崔氏)を霊視
今日は、韓国の歴史で聖君(善政を敷いた王様)として有名な英祖の生母・淑嬪崔氏を霊視します。
朝鮮王朝・粛宗の妃嬪ですかね。
(しばらくぶりの投稿で、お題は何にしようかな~、と悩んでましたら、
天界・神界のほうで、ご指名ありましたので、淑嬪崔氏にしました。)
淑嬪崔氏については、韓国歴史ドラマで、いくつか作品化されているようですが、
最近の作品ですと、イ・ビョンフン監督の『トンイ』がありますが、
(*イ・ビョンフン監督作品は、韓流歴史ドラマで唯一、暴虐な拷問シーンなど極力ない
子供でも安心して見れる、日本でいうならば、NHK的要素を持った
”安全韓国歴史ドラマ”なので、同居の子供スピさん&動植物スピさん達と
非常に安心して観れますv。)
イ・ビョンフン監督作品『トンイ』で描かれる淑嬪崔氏は、
賢く、すばしこく立ち回れる、気取りがない性格、、 の女性像
として描かれていますよね。
韓国ドラマでは、女優のハン・ヒョジュさんが、トンイを爽やかに好演してらっしゃいましたが、
実際の淑嬪崔氏は、どんな女性だったのでしょうか・・?
霊信により、伝えていただきましょう・・。
※淑嬪崔氏に関する ”一般的史実” はこちらでどうぞ..↓↓
【天界による霊視と霊信・・】
私どもの霊視による淑嬪崔氏
色黒で目が小さく、小さい目のクリっとした目。
顔のパーツがどれも小さく、鼻が丸い、愛嬌のある感じ・・。
美人ではない・・。
老人になった時のヴィジョンも併せて見せていただきましたが、
この顔のまま髪が白くなった状態で、小さいクリッとした愛嬌のある目は変わらない・・
そのような感じ・・
淑嬪崔氏に関する有名なエピソードとして、「水汲み」女官・・ と言われて、
揶揄されたり馬鹿にされた・・
・・・というエピソードがありますが、
霊信によれば、
宮廷の雑事を担当する女官・・
なのだそうです。
でね、なぜ粛宗の妃嬪、という立場になれたのか・・
霊信によれば・・
(天界の神体): 「粛宗が酒に酔ってふらついていた時、たまたま部屋の雑事をしていた淑嬪崔氏を後ろから眺めて、まめまめしく立ち働く腰のあたりにむらむらっときてしまった・・」
・・のだとか・・
(※注:霊視によれば、”色っぽい”腰つき、だとかそういう感じではなく、身分の低い女官なので、白衣のチマと普通並みの腰体型。 なにぶん、酔っている時であったので、タイプだとかそんなではなく、” なんとなく・・ " そんな感じになったようなのです。)
(天界の神体): 「淑嬪崔氏は、ひと言でいうと・・・・
粛宗時代の同じく側室である、朝鮮史上、悪女として名高い張妃嬪(チャン・ヒビン)もね、
これもまた確かに悪い女性なんだけれども、
最終的に あること をして、勝ったんですね、張妃嬪(チャン・ヒビン)に淑嬪崔氏のほうが・・
そ・れ・は・・
粛宗の正妃(正妻の王妃)は、仁顕王后閔氏であり、
当時の朝鮮王宮では、西人派と南人派の政治の派閥闘争が展開されていて、仁顕王后閔氏側についていた西人派が政権を握っていた。
仁顕王后は王妃に冊封され、6年を経ても子供に恵まれなかったため(不妊)、
対抗する荘烈大王大妃(姑)側の南人派は康熙25年(1686年)に「美貌に秀でた」中人(チュンイン/平民)出身の張氏(後の張妃嬪=チャン・ヒビン)を再度、後宮に送りこみ、承恩尚宮(スンウンサングン、正五品に相当)とした。 張氏は1686年12月10日に「淑媛」(スグォン、従四品に相当)に立てられ、さらに1688年に「昭儀」(ソイ、正二品に相当)へと昇進し、同年10月27日には王子李昀(後の景宗)を生み、康熙28年(1689年)1月15日にはその功労によって「嬪」(ピン、正一品に相当。側室の最上位)に昇進し「禧嬪(ヒビン)」と号され、李昀は王世子に立てられた。さらに同年5月2日、仁顕王后は廃され(廃妃)、1690年10月22日に張氏が王妃に冊封された[己巳換局] )。
これにより、それまでの西人派の専横に終止符が打たれ、それに代わって張氏側の南人派が権力を握ることになった。
また、しばらくして、これに対抗して、西人派では金春澤を中心に仁顕王后の復位運動(「閔氏重定運動」)が展開され、南人派の権力がかつての西人派のように増長することを危惧した粛宗が、仁顕王后を妃に復位することで張氏を後ろ盾にする南人派を牽制しようと企んだことにより、康熙33年(1694年)4月12日には張氏は王妃から「嬪」に格下げされ仁顕王后が復位した[甲戌換局]。 康熙40年(1701年)に仁顕王后が病没すると、西人派は王妃の死は張氏が巫女を使って呪詛したためだと誣告した。その結果、1701年11月9日、張氏は粛宗から賜薬により処刑された。
↑上記、歴史上伝わっている史実の中で、
私が赤字で示した箇所を見てほしいんですけど、
張妃嬪(チャン・ヒビン)が側室から王妃になり、張妃嬪(チャン・ヒビン)と南人派側が実権を握り、
南人派の政治専横を恐れた粛宗が仁顕王后閔氏をまた再び王妃に復位させますよね、数年後に仁顕王后閔氏は病没するのですが、その際、「西人派は王妃の死は張氏が巫女を使って呪詛したためだと誣告した。」とありますが、
以下(緑)は、どの史実にも残されていませんが、
霊信によれば、
西人派というよりは、
淑嬪崔氏、本人が呪詛の証拠ねつ造をして(呪術の人形を用意して)陥れた張本人である、
・・ということです。
(張妃嬪(チャン・ヒビン)はその罪状により賜薬により処刑されますが、
つまり、霊信によれば、
この件に関しては張妃嬪(チャン・ヒビン)は全くの無実で、
淑嬪崔氏により陥れられてしまった、 というわけ・・)
・・だぁからね、ご神仏が言うのに、
”根性が悪い” 、っって・・ ・゚゚・。
霊信によれば、
淑嬪崔氏は、
仁顕王后さん仕えになり、お世話になった経緯があって、
仁顕王后に恩義と忠義の気持ちを持っていたのね。。
もちろん、それだけではもちろんないでしょうけど、
世継ぎ争いや、
張妃嬪(チャン・ヒビン)に牽制される中で、
侮蔑的な言葉を吐かれる、、・・などがあったようです・・。
・・そして、
霊信によれば、淑嬪崔氏は、
「’孤独な’ 老後」・・。
(仮にも、王の妃嬪として華やかなシンデレラ・ストーリーを送った人なのに、
どういうことなんでしょう・・??)
今回、淑嬪崔氏を記事にするにあたり、
息子の英祖(延礽君)さんは、
自分には一人のやさしい母親だから、
腹立たしかったかもしれない。。
でもね、
英祖(延礽君)さんは、
朝鮮王朝史の中で、”聖君” と讃えられるほど善政を敷いた
有名な王様で、心正しき人だから、
母親の罪業を良心により冷静に評していて、
罪業を贖ってほしい・・ と思っているみたい。。
天界の神仏がおっしゃるには、
’ 淑嬪崔氏は、
生まれ(出自が良ければ)頭のよい派手な性格の人だったんだけれども、
生まれた身分が低いため、学をつける機会がなかった。。'
・・とのこと。
でも、やっぱり、偶然にしろ何にしろ、結果的に粛宗のお手付きになって、
国王の母にまで登りつめ、
そのDNAは、しっかり英祖(延礽君)さんに受け継がれたのではないか、と思います。
わたしは、いろんな韓国歴史ドラマや中国歴史ドラマを見てますけれど、
最終的に、息子が王位に就いた生母の妃、、というのがね、
(出自の正しい高貴な身分の女性は別にして・・)
かな~りね・・ かなーーーーりな奴なんではないか・・と思ってます。
(もちろん、全部が全部ではないですが・・ 当然、、・・)
(つ、つまりね、最終的な生き残りのためにかなりな悪どいことをやっているのがいるんではないかと・・)
まあね、単純なんですよ、・・
中国史や韓国史の後宮の女性の争い、って、、・・
「策謀」。。 っていうの?
わたしだって、そんなのやり方とかいくつも思い付くし、
やろうと思えば、勝てますよ、、v 。。
け・ど・ね 、、・・
この世には、犯してはならない ’罪’ 、 ’(心の)善・悪と裁決’ というものがあり、
今世に生きている者はもとより、
心霊世界においてはさらに厳しく審判・裁決される、
裁かるるべきものなのだ、、ということ。
だから、英祖(延礽君)さんも正しき人だから、
今回わたしにこの記事の公開を赦してくださったのかもしれません。。
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